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鎌倉検定3級「芸術・文化」頻出項目
阿仏尼『十六夜日記』
京都から鎌倉への旅日記・月影ヶ谷滞在中に執筆した紀行文
鎌倉検定3級出題頻度 : 10回
- ●過去の出題傾向
- (4回)「阿仏尼が『十六夜日記』執筆当時に滞在したという月影ヶ谷は現在のどのあたり」→「極楽寺」
- (3回)「息子冷泉為相の領地相続をめぐる訴訟のために、京都から鎌倉にやって来て、極楽寺に近い月影ヶ谷に住んだ歌人阿仏尼が書いた作品」→「『十六夜日記』」
- (2回)「阿仏尼が『十六夜日記』執筆当時に滞在したとされるのはどこ」→「月影ヶ谷」
- (1回)「息子冷泉為相の領地相続をめぐる訴訟のために、京都から鎌倉に下り、月影ヶ谷に住んで、その日々を『十六夜日記』に著した人物」→「阿仏尼」
●学習メモ(覚えておきたいこと・私的メモなど)
阿仏尼と紀行文『十六夜日記』だけでなく、阿仏尼が滞在した場所についても重要です。
阿仏尼(あぶつに)の生没年は、生年不詳-1283年(弘安6年)です。鎌倉時代中期の歌人です。
阿仏尼は藤原為家(ふじわらのためいえ)の側室となり、「冷泉為相(れいぜいためすけ)」らをもうけます。
藤原為家が亡くなった後、冷泉為相と二条為氏(正妻の子で、為相の兄)との間で領地相続を巡る争いが起こります。
阿仏尼は息子の正当性を鎌倉幕府に訴えるため、高齢の身でありながら、
1279年(弘安2年)、京都から鎌倉へ向かいます。(1277年(建治3年)に旅立ったという説もあります。)
その時の鎌倉への旅の記録と、鎌倉・「月影ヶ谷(つきかげがやつ)」での滞在記が『十六夜日記(いざよいにっき)』です。
阿仏尼は月影ヶ谷に4年間滞在したとされ、この地で没しました。(帰京して没したという説もあります。)
月影ヶ谷の場所は、今の江ノ電「極楽寺駅」にほど近い場所になります。
極楽寺駅を海の方へ向かった右手奥に「阿仏尼邸跡」の碑が建っています。
藤原為家の父親は、『小倉百人一首』の撰者である著名な歌人・藤原定家です。
二条為氏の生年は1222年(貞応元年)、冷泉為相の生年は1263年(弘長3年)で、2人は40歳以上の年が離れた異母兄弟になります。
藤原為家は当初、二条為氏に所領を譲るとしていましたが、
後年、阿仏尼との間にもうけた冷泉為相を溺愛し、所領を譲る相手を為相に変更してしまいました。
この変更が領地相続を巡る訴訟の原因となりました。
なお2人が相続を争った領地は播磨国細川荘(今の兵庫県三木市細川町)です。
阿仏尼が鎌倉幕府に訴えた時の執権は、第8代・北条時宗です。
時期としては、2度目の元寇(弘安の役、1281年(弘安4年))の頃になります。
阿仏尼は訴訟の結果を知る前に亡くなりましたが、結果は阿仏尼・冷泉為相側の勝訴となりました。
『十六夜日記』という題名は阿仏尼が付けたものではなく、後年付けられたものです。
京都を旅立った日が10月16日だったことが題名の由来となっています。
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